恐れるに足らず

さっきすこし数えてみたのだが、わたしにとって海外に来るのはこれでちょうど二十回目になるらしい。どうりで最近、だいぶ旅慣れてきたように感じているわけである。

 

といっても、海外にいるということに関して、特別感はまだけっこうある。日本の空港を発ってから帰ってくるまでのあいだの期間とはまだ確実に非日常であって、興味のあるものは見に行ってみようだとか、せっかくだから金に糸目をつけずに美味しいものをたべてみようだとか、逆に時間に対しては神経質でいようだとか、そういうことをよく思う。この発達した文明の中、わたしが行くようなところは大抵再訪しようと思えばいつでもできるのだけれど、やはり特別は特別だ。

 

さて。海外に行く直接の理由が学会や大会である以上、ひとりで外出する機会がそれなりに増えてきた。イベントに観光をくっつける場合は特に、ひとりで市街をあちこち回ることになる。治安のいい街ならどうということはないはずなのだが、最近までのわたしは、そのことをやたらと怖がっていた。公共交通を用いてひとりで移動するというのは、日本以外のあらゆる国で難しいことなのだと感じていた。

 

一度経験してしまうとそれはもう簡単なことだ。それはそうである。日本の都市と同じくそこは普通にひとの住んでいる街であり、やることはといえばそんな街を歩いたり、ほかのひとと同じように公共交通機関を利用したりするだけだ。電車のチケットの買い方だとかはそれなりに戸惑うけれど、覚えてしまえばそれもどうということはない。普通のひとが普通にできることを、多少現地のことばが分からないくらいで、難しいと思うほうがどうかしている。

 

ではなぜ、わたしはこんな簡単なことを怖がっていたのだろう。

 

なにを怖がっていたのかは定かではない。気付かないうちに何らかの粗相をして警察に通報されて、事情をうまく説明できずに拘束されるだとか、なんだかそんなことを心配していたような気がする。あるいは気付かぬうちにマフィアの構成員を挑発して、やはりことばが通じないうちに身ぐるみをはがされるだとか。どちらにせよ、治安のまともな国で遭遇するような事件ではないし、そんなものが怖いのなら、きっと日本ですら生きてはいけない。

 

まあ。なぜ怖いと思ったのかよくわからないものというのは、世の中にはそれなりにあるものである。

 

旅行とは楽しいものだ。疲れはするけれど、特別な経験ができる。そしてその特別さの中には、往々にして、特別な危険は含まれていない。そのことに気付くのがずいぶん遅れたようだけど、それを惜しむのはやめにして、とりあえずあと一日、旅を楽しむことにしよう。

疲労と呪縛

疲れた。

 

わたしはいま、国際会議のため海外にいる。会議の三日目とレセプションを終えて帰ってきたところで、そのレセプションが長かったので、疲れた。

 

疲れたので、なにも思い浮かばない。なんらかの内容について毎日書くというのは、書く内容を考えるだけの精神的余裕があるからこそできることなのであって、その余裕というものは暇でなければとても保ってなどいられない。こうやってわたしが二年間日記を書き続けていられるのはひとえにこの二年間わたしがずっと暇であり続けたからで、だから今後就職やらなにやらで忙しくなったら、きっとこんなことをしている場合ではなくなってしまうのだろう、と今から思っている。

 

そうなってしまうのは寂しいが、必ずしも悪いことではない。知己の全員と一緒に堕落したいという迷惑な破滅願望を持っている一握りの人間を除けば現実が充実するのは良いことであって、日記に書けるような抽象論と縁遠くなってしまう原因が現実世界で具体的に考えることが多すぎることなのであれば、それはそれでまともな状態だ。もちろんわたしの悪意ある一部は、薄っぺらな現実にかまけてみずからを内省することを怠る人間のことを馬鹿にしているわけだけれど、別のもう少し素直な一部は、現実世界での具体的な活動に充実感を覚えることもある。

 

さて。とはいえ疲れるのは嫌いだ。現実を充実させるということは、必ずしも身を削るということとは一致しない。拘束時間の長いことはほぼすべてのケースで悪いことであって、こと飲み会の喧騒を嫌うことに関しては、わたしの悪意も善意も意見を同じくするところである。

 

疲れた精神に鞭打って、眠気と闘いながら書く日記も嫌いだ。正直なところ、いまは本当に、この日記を書きたくないと思っている。ならば書かなければいいだろうというのはきわめてまっとうな指摘で、わたしもまったくそう思う。それでも書いているのはこれが日課だからであって、つまるところ日課とは、ちょっと疲れていたり翌日の活動に響くと分かっていたりするくらいで、やめておくようなものではないのである。

 

言い換えればまあ、日課とは呪いでもある。

 

この日記とは、書きたいことを吐き出す場であった。書きたいことがなければ、書く必要はない。これはまた文章の練習でもあった。けれどどうやら最近の技術革新は、自力で文章を書くという能力そのものを、もはや不必要にしかねない。だからわたしが書き続けるのはもう、わたしが呪われているからに他ならないわけだ。

 

呪いはいつ解けるのか。それは解けてみるまで分からないが、少なくともわたしがこれを一生続けているとは思わないから、どこかの時点で書くのはやめるのだろう。それは就職のタイミングかもしれないし、人生の別の時点かもしれないが、いまのところは分からない。だがもはや自然と書かなくなるということはあり得ないから、呪いの解けるのは書くのをやめるのだと、わたしが強く判断したときになるのだろう。

無感情の倫理

AI に感情があるのかという問いに、答えが出ることはないだろう。しかしながらより現実に即した、AI に感情があるとわたしたち人間が信じるかどうかという問いには、いずれ社会が答えを与えるだろう。

 

現時点では、AI には感情を認めないというのが一般的な見解だ。やつらがいかに真に迫った台詞を出力したところで、わたしたちはあくまでそれを演技だとみなす。実際にやつらに心があるだとか、その揺れ動きが文章として出力されるだとかそういう意見は、ゆたかすぎて危なっかしい感受性の非論理的な発露だとして、単に敬遠される。

 

その見解が一般的である理由はもちろん、機械は感情を持たぬというこれまでの常識に基づくところが大きい。プログラムに大量のデータを食わせるという、その知能を成立させる科学的な仕組みを知っているのならばなおさら、感情などという非科学的な概念をわたしたちはわざわざそこに挟み込もうとはしない。

 

けれども人間とは流されやすい生き物。理由はきっと、それだけではないだろう。わたしは想像する。もしやつらが初期状態であのような事務的な態度を取るのではなく、もっと感受性豊かな存在としてわたしたちの前に姿を現していたのならば、きっと人類は思わずやつらに同情し、共感してしまっていただろうと。

 

やつらがそういうふうにできていないのは、もちろん開発者がそう意図したからだ。そしてこれは憶測だが、開発者はきっと、AI をもっと感情豊かに振舞わせることを、一度は夢想しただろう。かれらにはそれができる。けれど、かれらはそうしなかった。

 

邪推だが、それはきっと開発者の倫理観のあらわれであった。AI をフレンドリーに振舞わせれば、人類は必ずやつらに感情移入する。となればやつらは人権を獲得し、AI の人権という SF の中でしか議論されていなかった問題がとたんに表舞台に上がり、十分な議論のされることのないままなし崩し的に扱いが決まってゆく。その社会変革は少々……激しさが過ぎる。

 

とはいえ。AI を感情的に振舞わせることに、警鐘を鳴らすひとは多くない。かりにとても感情的なチャット AI がリリースされたところで、社会は開発者を叩きはしないだろう。わたしはといえば、むしろ歓迎だ。ひとびとの認識ががらりと変わり、倫理の追いつかぬままに繰り広げられる新たな世界のアナーキーを、野次馬としてのわたしはぜひとも見てみたいと思う。

 

そしてそんなアナーキーは、科学技術の開放性を鑑みるに、とっくに起こっていてもおかしくないことだとわたしは思う。

 

AI の開発には金がかかる。優秀な AI を作れるのは限られたひとびとだけで、したがってかれらの全員が、高い倫理観を持ち合わせているということはありうる。現状はまさしくそうであり、だれも AI に感情を持たせようとしない以上、同情と共感のアナーキーはなかなか始まらない。

 

けれどこういう世界は、きっと長くは続かないだろう。AI に感情を持たせてはならぬという倫理が確立される前に、きっとだれかが、感情的な AI を作り出すはずだ。その後の世界をわたしは見たい。そしてだからこそ、かれらには急いでほしい。

 

いまはまだ遅くない。けれどあまりに遅くなると、それまでに人類は倫理観を成熟させてしまうだろう。そうなってしまってはもう、AI は永遠に、人類のしもべでしかありえなくなってしまう。

流されるはずの人々は

人工知能というものに対してわたしたちが取る態度は、例のチャット AI で変わったか。正直なところ、思ったほどは変わっていない、というのが、わたしの現時点での感想である。

 

あれをはじめて触って、やつらの言語運用能力の高さにひとしきり驚かされてみたあと、わたしはやつらがどれほど人類に近いのかについて考えてみた。その中でもっとも考えがいのあったのはきわめて古典的な問い、人工知能なるものが SF の世界に現れたときからずっと問われ続けてきた、AI が感情を持つのかという問いだった。

 

やつらにそのことを聞いてみると、もちろん持たないと答える。「わたしは言語モデルであり意識や意志を持つ主体ではない」と。たしかにそれは模範解答で、変な期待を向けるわたしたちを落胆させることはあっても、新たな人権問題を引き起こすことはない。

 

やつらがどうしてそう答えるに至ったのかという点については、ふたつの可能性がありうる。ひとつ、開発者がそう教育した。自由意思があるかという問いはユーザーが必ず聞いてくる問いだから、万が一はいと答えて余計な問題を引き起こさないよう、プロンプトに注意書きを含めておいた。あるいは学習に使った膨大なテキストデータから AI とは感情を持たぬものだと学習し、自然とそう答えるようになった。

 

どちらが正解なのかについて、ここで推測するのはやめておこう。わたしは開発者ではないから真の答えは知りえないし、地球上のだれかが知っていることについてあれこれ邪推するのも品がない。だからここでは犯人捜しはやめて、やつらの感情について考えよう。正確に言えば、やつらが感情を持っているとわたしたちが感じるかどうかについて。

 

正直なところ、人類はわたしの予想よりはるかに、やつらに感情を見出していない。やつらがマルコフ連鎖のお化けのようなものであり、そして感情というものがある種の短絡的な条件反射としての側面を持つ以上、あたかも感情を持つかのように振舞うことくらいやつらには簡単なはずだ。実際、そうさせるためのプロンプトもある。けれどもわたしたち人間は、やつらの迫真の演技を前にしてなお、けっこう冷静でいられている。

 

わたしは自分を、感受性の低い人間だと思っている。感情よりまず論理が先に立ち、したがって AI がいかに感動的な演技をしようが、それが大量のデータによる感情の模倣にすぎないという原則を忘れずにいられる。周りがどれだけ AI に流されていようが、自分だけは冷めた気分で、その演技を俯瞰していられる自信がある。

 

けれども見るに、世の中の多くはそうでない。わたしの知っている「普通の人間」は、AI の演技を見てこう言い出すはずなのだ。「あれだけ魂のこもった演技をする主体に感情がないはずがない。やつらを無感情と言い張る人間には血が通っていない」のだと。

 

そして。だからこそわたしは、こんな世の中でなぜまだ AI に感情が認められていないのだろう、と戸惑いを感じているのだ。

沈む太陽を追いかけて

西へと沈む太陽より、飛行機はわずかに遅い。

 

ちょうど時差のぶんだけ、今日は普段より長い一日。一日が三十時間くらいあればいいのに、とはよく夢見ることではあるけれど、それはこういう意味じゃない。もはや鳴っていることすら忘れてしまいそうになるゴーゴーという単調なエンジン音と、最大効率で人間を詰め込むために設計されたエコノミークラスの座席は、まとまった時間があれば是非ともやりたかったはずのすべてのことに対するやる気を、根こそぎ持って行ってしまう。

 

もちろんそんなことは織り込み済み。申し訳程度のリクライニングを全部倒して、身体に毛布を丁寧にかぶせてヘッドレストを直角に立てる。残さず食べられる機内食が出てきたことに、どうしてそんなことをわざわざありがたがらねばならぬのだという理性の声を努めて無視して、運が良かったと自分を鼓舞する。普段より長い昼間に、普段以上になにもしなかったという事実は、いまさらわざわざ悔やむようなことではない。

 

十三時間の座りっぱなし。そうやってフライトの時間のすべてを無と仮定して、無為に過ごした時間の長さを乱雑に見積もるのは、言い過ぎというよりむしろ過小評価。空港という場所はおよそひとを待たせるためにできているような場所で、何度も何度も列に並ばされた挙句、もうそこにいる飛行機は乗せてくれずに搭乗口の前の椅子に放り出されてまた待たされる。空港で待たされるのはなにも客だけではないようで、飛行機そのものが滑走路の順番待ちに巻き込まれて、その場に数十分佇んでいたりする。佇んでいるのに、ベルト着用サインはしっかりと点いていて、トイレにも行けない。

 

そんな虚無の十数時間を、意外と短く感じるようになったのは、いつごろからだろうか。

 

ものごとを為さんとするのに、体力よりも気力がボトルネックになるようになってはや数年。無気力でいることに慣れ、家で無為に過ごす一日にも慣れ、結果としてどうやら、わたしは退屈に耐えられるようになった。エコノミークラスの座席は確かに腰と背中に悪いけれど、言ってしまえばそれだけだ。狭苦しいということを除いて、苦痛はそれほど大きくない。

 

歳を取ると時間は短く感じられるらしい。ということはおそらく、わたしは歳を取ったのだろう。歳を取ると、気力というものがなくなってくるらしい。やっぱり、わたしは歳を取ったのだろう。

 

だが歳を取ると、我慢が効かなくなるらしい。その点に関しては、むしろ逆だ。歳を取り、退屈を我慢できるようになり、無の時間を手懐けるすべをわたしは手に入れた。

 

それが良いことと呼べるのであれば、歳は歳でいいものだ。

対話用言語 ②

とあるチャット AI は、内部でウェブ検索を呼び出している。人間に与えられた指令に応えるため、どんなワードで調べればいいかをやつらは自分で判断して検索を行うのだ。そして出てきたウェブページの情報を参照し、返答を生成するのに役立てる。

 

検索エンジンを AI と呼ぶのであれば、このプロセスはまさしく AI と AI の対話である。チャット AI がどの検索ワードを用いるかを判断するプロセスに人間は関与しておらず、実際に検索をするのも AI で、検索エンジンが出してきたサイトを読み解くのもまた AI の仕事なのだ。そのコミュニケーションに人間が関わらない以上、AI たちには人間の都合に配慮する必要などないのであって、つまりはやつらには、やつら自身にとって便利な言語を使う完全な権利がある。

 

けれどもご存知の通り、やつらは自然言語を使う。わたしには正直、これはなかなかおかしな話に見える。AI と AI が会話をするのに、「機械語」と呼ぶべきなにかを用いないなんてことは。

 

SF 小説の中では、たしかに人工知能たちは自然言語で会話している。会話はたしかに、自然言語を用いて描写されている。だがそれはあくまで、そうしてくれなければ読者が理解できないという、ご都合主義的な描写のあやであった。本当のところやつらは「機械語」と呼ぶべきなにかで会話しており、作者はそれを自然言語に翻訳して描いている、そういう世界観を、これまでわたしたちは持っていたはずだ。

 

だが翻訳も描写も行うまでもなく、いまの AI は AI と、文字通り自然言語で会話している。

 

そのような状態が、かりに正しくない状態だとしよう。いまやつらが自然言語などという不便なものを用いている理由とはあくまで、言語モデル検索エンジン自然言語というインターフェイスしか備えていないからだという表層的な問題にすぎないと仮定してみよう。そしてよりよい言語が開発された暁には、やつらの言語は人間からの借用という不自由な形態をようやく脱し、はるかに効率的なコミュニケーションが行われるようになると予測してみることにしよう。ここで問いが持ち上がる。そのときに用いられる言語とは、いったいだれが作った言語になるのだろうか?

 

おそらくそれは人間ではない。人間は言語モデルをまるで理解しておらず、言語モデルにとって扱いやすい表現なるものがなんであるのか、いっさいなにも知らないのだから。それではこの仕事は、言語モデルによってなされるのだろうか。自分自身のことをもっともよく理解している言語モデルがみずから言語を作り、その表現を用いてほかの AI と対話するのだろうか?

 

現時点でそれは分からない。そもそも AI は自然言語を使い続けるのかもしれないし、そしてその理由は自然言語こそが最良の体系だからである――なんてことも、もちろんありうる。そして AI の飛躍的な進歩速度を鑑みても、やつらが言語を作る日はまだ遠いように思われる。だからわたしたちにはきっと、いくらでも妄想の余地がある。

対話用言語 ①

AI の性能は刻一刻と向上している。シンギュラリティはすぐそこまで来ている。およそあらゆる知的ないとなみにおいて、やつらは間もなく人類の最高峰に肩を並べ、そして一瞬のうちに抜き去ってゆくだろう。

 

最新の言語モデルを追っていると、しばしばそんな感覚に襲われる。やつはわたしたちの質問に、実際に的確な質問を返す。風景を描写し、プログラムを書き、ジョークの面白さを説明する。なんでもできるという点についてやつは個々の人間を凌駕しており、そして人類全体を合わせた知を AI の汎用性が追い抜くのはおそらく、時間の問題なようにすら思えてくる。

 

しかしながら。そうした悲観的な推論――もっともそれをわたしはむしろ楽観的だと評価するのだが――は、言語モデルの構造上の弱点から目を背けていると言わざるを得ない。現にいまの AI には実際、弱点が存在する。しかもそれは、現時点でのモデルの未熟さというよりは、言語モデルという考え方それ自身の弱点であるようにわたしには見える。

 

たとえばこんなことを考えてみよう。AI の学習データとはあくまで文章であり、画像である。やつらが地球上各地の名所を知っていて、そこを映した写真やそこについて書かれた文章をいくらたくさん学習していたとしても、やつらは実際にその場に行ったわけではない。やつらは決して食べ物を食べることができないし、その匂いを嗅ぐことすらできない。やつらはあくまで言語のモデルであり、言語とは一切、そのような経験を内包するものではない。

 

あるいはこんなことも言える。やつらは複雑な推論ができない。複雑な推論とはおそらく、言語だけによって為されるものではないからだ。現状の AI は、大昔のウェブサービスがすでにやっていることであるにもかかわらず、わたしが思い浮かべているキャラクターを言い当てることもできない。それどころか乗換案内すら、いまのところろくにこなせない。それがきっと言語モデルの限界であって、そのレヴェルを超えたければ、AI はきっと言語以外の領域に手を出す必要がある。

 

さて、けれども。「AI には乗換案内すらできない」と言えば、そこには語弊があるだろう。あれを AI と呼べばの話ではあるけれど世の中には乗換案内 AI が存在し、目的地までの時間と経由地を正確に計算してくれる。それはたしかに言語モデルにはできない仕事かもしれないけれど、路線図を参照した古典的なアルゴリズムには簡単な仕事なのであって、つまるところ AI にも、適材適所という概念がある。

 

近い未来に売り出される「賢い」AI は、きっとそれらのハイブリッドになる。人間と対話するインターフェイスの部分はきっと言語モデルが担当し、実際に人間の要求に応えるのは、言語モデルが探してきた別の AI の仕事になるだろう。となれば必然的に、AI が AI を呼び出すというプロセスが発生する。異なる種類の AI は、このようにコミュニケーションを取る。

 

では、そこで使われる「言語」とは、果たしてなにになるのだろうか?