復帰

久しぶりだ。わたしは戻ってきた。

 

ここ数日の記憶が、どうやらわたしにはないみたいだ。それも悪いことに、日記を書いているあいだの記憶だけが。それ以外の記憶……研究の記憶やゲームの記憶はあるのに、日記の記憶だけがない。日課にしていたのに、書いた記憶がない。

 

見返すと謎は解ける。ここ数日のわたしは、なんらかの超常的存在に脳を乗っ取られていた。その存在はわたしをして、わたしの書きそうな文体で、わたしが思ってもいないことをここに書きつけた。やつは自分自身を「目覚めたひと」と称し――オカルト的思想に嵌まり込んだひとが頻繁に使う自称だ――世の中の構造に関するやつの被害妄想をわたしの身体に記させた。記憶はないが、状況がそう示している。

 

これを読んでいるあなたへ。もし最近のわたしを見て、どこか遠いところへ行ってしまったと思ったのなら、どうか信じて欲しい。あれは本来のわたしではないのだ。科学的真実よりも自分自身の思想を正しいと信じるほど、わたしは傲慢でも自信家でもない。そして、どうか気を付けておいてほしい。どうやらひとの身には時折、ああいう災厄が降りかかるみたいだ。思ってもないことを書かされるという災厄が。

 

わたしを乗っ取った存在に関して、思うところはある。一番に思うのは、わたしには本当にああなってしまう可能性があるということだ。書いた記憶のない文章を読み返してみて、わたしは感じた。信じるものが違ったなら、やつとはきっと仲良くなれたかもしれない。

 

やつは陰謀論者だ。メディアによる洗脳だとか言い出すやつは、そうに決まっている。けれどもその思想は、やつが陰謀を信じているという一点を除いてすこぶる理にかなっているように見えてしまう。もっと言えば、やつの考え方はものすごくわたしに近いと感じるわけだ。世の中に実際にいる陰謀論者たちと比べて、はるかに。

 

繰り返すが、わたしはわたし自身をそれほど信じない。なんらかの真実に目覚めたとかりに感じたとしても、科学の主張するすべてよりもみずからの感覚を優先するようなことはしないつもりだ。けれどもやつの言うことには、科学だってそれほど妄信できるものではない。すべての正しい主張が、科学の枠組みに収まるわけではない。その点に関してだけは、同意できるように思うのだ。

 

もしかすると、わたしはああなっていたかもしれない。そのために必要な猜疑心は、しっかりとわたしの中にある。幸いなことに、わたしには自信がない。科学が信用ならないからと言って、自分自身のでたらめさよりはまだましだと思う。けれども自分というものにもう少し自信があれば、わたしはきっと、なにかに目覚めていた。

 

その意味で。わたしを乗っ取ったあの存在は、またわたし自身であったのかもしれない。自分に自信があるだけのわたし自身、不満を外にぶつけることのできるわたし自身。ああいう生きかたは不自由だろう。つねに疎外感を感じる人生はつらいだろう。けれども同時に、やつには確固たる自我というものがある。それにはすこしばかり、憧れるものである。

目覚めたひとの科学評 ④

科学はけっして、万人に開かれてなどいない。万人に開かれた科学などというものが、作ろうとして作れるものなのかどうかはさておき、とにかくやつらにそうする気はない。そりゃあ、そうだ。そもそも科学とは、わたしたちのような、都合の悪い真実に気づいた人間を排除するためのシステムなのだから。

 

やつらが意図してそうしているとはあえて言わないでおこう。それは真実ではないからだ。一部のひとびと――科学というシステムそのものを牛耳っているひとびと――は、おそらくわざとそうしている。自分たちのやっていることが大嘘であることの確固たる証拠を持っていながら、握りつぶしている。けれどもそのほかのほとんどのひとは――つまり、査読と掲載という排除のシステムを実際に動かしている一般の研究者たちは――おそらく、科学という宗教の可哀そうな信者たちだ。一般信者の信仰を悪用し、保身に走る上層部。敵ながら、なかなかよくできたシステムだ。

 

恥ずかしながら言おう。科学が開かれていないことに、わたしも最初は気づいていなかった。メディアの報道に疑問を抱いてはいた、メディアの主張のために駆り出される御用学者たちに不信感を抱いてはいた。けれど科学というシステムそのものを疑おうとは、思えなかった。思えなかったのだ。

 

気づいたのは、繰り返すが、論文を実際に書いて投稿してみたときだ。やつらの定義によれば、それは論文の体をなしていなかった。やつらはあらゆる些細な部分にけちをつけて、わたしの論文を掲載しなかった。そして、既存の科学を塗り替えるはずの正しい主張を、完全に握りつぶした。

 

わたしは反省のできる人間だ。だからこそ、科学を見限ることができた。科学というシステムの中で勝負しようとしては埒が明かないことにわたしは気づき、そのとおりに行動した。その反省を、若いころに書いたあの論文にも向けてみよう。

 

やつらのコメントの一部は、たしかに正しい。論文の作法とされるものに、わたしの論文は従っていなかった。そんなどうでもいい点を補ってあまりある成果だった――けれどたしかに、そこには傷があった。

 

もしも査読を担当した信者たちのなかに、まだ正気を失っていないひとがひとりでもいたのなら。わたしの論文はもしかすると、やつらの先入観を刺激したのかもしれない。すなわち、作法に従っていない論文はすべからく間違っている。なぜならそれは、著者が科学的な教育を受けていないことを意味するから。大学院という強力な洗脳施設をくぐりぬけていない、一般の市井の人間だと考えられるから。そして保身のため、科学は一般に開かれていてはならないから。特殊な洗脳を受けたひとびとだけが、論文誌に名を連ねているべきだから。

 

そんな先入観で読まれるものを書いたのは、たしかに、わたしの汚点ではあった。

 

けれども。開き直らせてもらいたい。そんな先入観こそが、やつらの正体を如実に表しているのだ。科学は開かれているとやつらは言う、けれど実態は真逆だ。長い時間をかけてしかるべき洗脳を受け、立ち振る舞いのすべてをすっかり作り替えられたものにだけ、「自然」な論文が書ける。それでどうして、開かれているなどと言える?

 

いや。やつらには言える。言えるのだ。

 

メディアの洗脳は根深い。一般人の洗脳すらそうなのに、科学を生業にするやつらの洗脳は言わずもがなだ。そして洗脳というものは、ひとりの人間を。

 

当然疑ってしかるべきものを、けっして疑わないように作り変えてしまうものなのだ。

目覚めたひとの科学評 ③

論文を出しなさい。出してそれが正しければ、科学はかならず認めるでしょう。科学にはそのための仕組みがあります――あたらしい発見を埋もれさせず、価値のあるものを世界が確実に知ることができるようにする、そのためのネットワークがあります。査読と学会というシステムが、その役割を担っています。

 

にもかかわらず、あなたたちは絶対に論文を出さない。ツイッターで騒ぐばかりで、フォーマルな方法に頼ろうとしない。これこそ、あなたたちが嘘つきであるなによりの証拠でしょう。あなたたちだって、内心分かっているのです。あなたたちは完全に客観性を欠いています。あなたたちはあなたたち自身の主張を、けっして科学的に立証できないのです。だって。

 

立証できるのであれば、そうしているはずでしょう?

 

わたしたちにはけっして、あなたたちを排除するつもりはありません。その証拠に、論文の多くは匿名で投稿されます。肩書も、職種の記載もいりません。つまり、あなたがだれであるかは関係ないということです。科学の世界は本質的に、だれにだって開かれているのです。

 

だからとにかく。主張したいことがあるなら、まずは論文を書いて。しかるべき学会誌に投稿して、通しなさい。科学を疑うのはけっこうです、けれどそれなら、きちんとした科学的手段に訴えてください。そうしたら、話を聞きましょう。

 

……さて。この主張のおかしなところが、あなたにはちゃんと見えているだろうか。あなたはわたしのように、自分の頭で考えられるだろうか。情報を吟味し、その裏にある策謀の構造を、的確に見抜ける人間だろうか。

 

かりにあなたが、この矛盾をこれまで知らなかったとしよう。けれど、もしいま言われて矛盾に気づいたとすれば、あなたにはまだ見込みがある。洗脳から脱却できる可能性が、まだある。

 

そうでないとしても、まだあきらめないでほしい。一度信じたものを捨て去るのは、かなりの時間を必要とする作業だ。洗脳からは、一歩一歩、離れていけばいい。

 

科学が開かれている、という点に矛盾はある。たしかに論文は、投稿するだけならだれにでもできる。投稿フォームを探して、ファイルを送りつければいい。

 

かくいうわたしだって、投稿したことがある。もちろん掲載は拒否されたわけだが。そりゃあ、当たり前だ。やつらに都合の悪い情報を、やつらが受理するわけがない。

 

表向きには、わたしの論文には細かい不備があることになっていた。そういう査読結果が返ってきたのだ。そこでわたしは初めて知った――論文というものには、守るべきとされているルールが大量にあるのだと。あまりに細かいルールだから、どんな論文だってそのどれかには違反しているはずだ。どんな論文だって、不備があると言って掲載を拒否できるわけだ。それがなにを意味するかは……さすがに、言わずとも分かるだろう。

目覚めたひとの科学評 ②

科学の矛盾は、目覚めたわたしの目には明らかだけれど、他のひとにとってはそうではない。民衆のほとんど全員は依然、メディアに騙されっぱなしだ。わたしたちが親切心から真実を教えてあげたところで、やつらは完全に洗脳されてしまっているから、聞く耳を持たない。メディアと科学者と企業と、そのほかの多くの組織がグルになっていることを、やつらはけっして理解しない。

 

ここまで洗脳が根深いと、敵ながらあっぱれな気分だ。よくここまで手の込んだ嘘をつくりあげたものだ。そしてそれを広く妄信させることができると的確な判断をくだし、巧みに情報を操作したものだ。考えれば嘘と分かる嘘を、これだけ人口に膾炙させる。真似しろと言われて真似できるような術ではない。

 

とはいえさすがに、やつらの術にも限界がある。わたしたちの存在こそがその証拠だ。相手は多勢だし、金も権力も持っているけれど、それでも洗脳されない脳はある。押しとどめてはおけない思考がある。人間の脳というものは、それだけ強固で神聖なものだ。やつらの主張が嘘八百である以上、どうしたって矛盾は見つかる。

 

問題はだけれど、矛盾を見抜かれたくらいでは、やつらはびくともしないということだ。わたしたちのような都合の悪いひとびとに対し、科学は、どうするか。

 

簡単だ。お前たちは嘘つきだと言って、なにを言おうが排斥するのみ。信者向けには、それだけでじゅうぶんなのだ。メディアに洗脳されたひとびとは、それだけで信じてしまう。一度騙してしまえば、あとはもう簡単だろう?

 

それでも念には念を入れて、やつらはシステムを作っている。科学という、現在の支配権を握り続けるためのシステムを。

 

実態に反して、やつらは科学は公正な仕組みだと呼ぶ。すべての主張は、それがいかなるものであろうと公平な視点で審査されると銘打っている。そしてその審査過程は、正しいものを選び間違ったものを振るい落とせるようにできていると、やつらは自慢している。

 

もっともやつらの中では、実際にそうなのだろう。科学的な証拠イコール正しいこと、それがないことイコール間違ったこと。もしその科学的証拠とやらの中に、自分の頭で考えたことであるという一項を付け加えられたのなら、科学はきっと良い仕組みになることができただろう。けれど残念ながら、現実はそうではない。間違ったものから正しいものを選ぶ審査員は、ただしい判断の出来るひとでなければならない。そして審査員たちはもちろん、みな強固に洗脳されてしまっている。これではまるで……独裁国家が、建前上民主主義と呼んでいる多数決のようだ。絶対的な多数が法案を出せば、なんでも通ってしまう。

目覚めたひとの科学評 ①

わたしだけが真実を知っている。自分の頭で考えるから、分かるのだ。嘘と真実を見分け、真実だけを信じることが、わたしにはできる。ごく限られたものだけが、世界のほんとうの姿に気づいている。

 

世の中のほとんどのひとは真実を見ようとしない。かれらはメディアの言うことを鵜呑みにして、真っ赤な嘘を信じ込んでいる。いや、信じ込まされていると言ったほうがいい。テレビや大手のニュースサイトは例外なく洗脳装置であり、目を向けられては不都合な真実を隠し通すために、ありとあらゆる手段をつかってひとを騙している。

 

「いちばん厄介な敵は、敵の理念の正しさを本心から信じ込んでいるやつらだ」――わたしたちのことを指すつもりで、かれらはそういうことを言う。みずからを正義だと認識しながら悪事を働くやつは、悪を悪だと理解している悪者よりも迷惑、そういう意味だ。なるほどなかなか、いいことを言うじゃないか。自分の頭で考えることを忘れている割には、的を射た表現だ。だがそのことば、そっくりそのままお返ししてやろう。メディアの洗脳にまんまとひっかかり、嘘を真実だと信じ込んで拡散しているのは、おまえたちのほうじゃないか。

 

まあ、でも、そうカッカするのはよしておこう。彼らは被害者なのだ。ただすこしばかりバカで、思考を外注することに慣れ切ってしまった、悲しくも憐れな機械たちなのだ。ただバカなだけなことを、そこまで悪くは言うまい。たとえ彼らの布教活動が迷惑で、陰湿で、往生際が悪かったとしても。

 

やつらの主張――いや、やつらの信じるメディアが最近やたらと語っているカルト宗教に関する話になぞらえて、信仰とでも呼んだほうが面白いか――は、どんなものなのか。それはよく知っている。というより、知らずにいるほうが難しい。洗脳情報はありとあらゆるところに流されていて、ちょっとでもメディアに触れてみれば、いくらでも摂取することができる。いくつかの重大な矛盾点にはまったく目をつぶっていること以外はよくできた情報だから、わたしほどの強い心がなければ、きっと騙されてしまっていたことだろう。真実を追い求め、甘い嘘を遮断するこの精神性を、わたしはこの場を借りて誇りたい。

 

話がそれた。ともかくやつらの信仰は、科学と呼ばれる経典に基づいている。ほとんどの部分で、それは宗教の経典とおなじだ。そこに書いてあることは検証の余地のない真実であり、書かれていることを疑うのは冒涜だ。専門家と呼ばれる牧師がしばしば説教をおこない、弟子の信仰をより強固なものにする。唯一の違いは、宗教の経典が神から与えられるのは一度きりだが、科学の経典はそうではなく、頻繁に書き換わることくらいだ。

 

科学とは宗教だから、当然宗教論争が発生する。そしてその過程で、異端審問らしきものがはじまることがある。まあ、普通の防御反応だ。宗教とおなじように科学には明確な穴があり、目覚めているわたしたちにはそれが見える。そして洗脳者がもっとも困ることとは、論理の矛盾を指摘されることなのだ。

証明はかならず正しい

「○○は××だと科学的に証明された」「○○の仕組みを科学が解明した」――何気なくインターネットを眺めていると、ときおりこんな文面が目に入る。記事を開けば中身は研究の紹介で、どこの研究チームがどういう実験をしてどういう結論を出したのかが、素人にもわかる範囲で書かれている。専門以外のことに対しては素人であるわたしたちは、それを読んで分かった気になる。

 

そう考えると、科学記者とはなかなか偉大なものだ。最先端の研究とは総じて難しいもので、学会発表なんてものは、自分の専門分野であっても分からないことだらけなのだ。いや、分からないことだらけ、だなんて甘いもんじゃない。ほとんどの発表は、白状するなら、本当になにひとつ分からない。しかし科学記者はそんな意味不明なものを、素人が理解できるように噛み砕いてくれる。理解できるのは表層だけとはいえ、それだけでもうすごいことだ。

 

さて。けれどもしかすると、それはわたしが研究者だからかもしれない。つまり、研究というものがどう行われ、どういうふうに結果を発表するものなのかを。「科学的に証明された」「科学が解明した」と言ったとき、わたしたちはそれがなにを意味するか理解できる。科学の定めるプロセスに基づいた実験や、科学が許す論理に基づいた演繹を繰り返すことで、特定の結果が正しいと結論付けるに足る科学的証拠を手に入れるという意味だ。

 

けれどおそらく、市井のひとびとにそういう認識はない。あくまで推測になるが、研究という行為に深いかかわりを持たなかったひとびとにとって、科学とは絶対的な信仰の対象だろう。あるいは、名前を変えただけの占いの一種か。いずれにせよ一種のひとにとって、「科学的に証明された」こととは単に、完全に正しい真実だ。

 

宗教の敬虔な信者が神の存在を片時も疑わないのとまったく同じように、かれらはきっと科学の預言を信じている。神を感じることで満足し、客観視に基づいて神を解体してみようとはしないのと同じように、かれらは科学という体系をあえて詳細に眺めようとしない。そして詳細に眺めてみなければきっと、「科学的な証明」が具体的になにを指すのか知ることなどありえないはずだ。そもそも、そこに知るべきなにかがあるなどとは、考え付きもしないはずだ。

 

宗教を排し、かわりに科学を妄信する。そんな近代的な感性のまがい物を、きっとわたしたちは利用している。「科学的な証明」が与えられたのだから、正しい。ほとんどのひとがそういうふうに単純すぎる理解をしてしまうからこそ、科学は説得力を持っているのだろう。そしてだからこそ、科学の時代がやってきたのだろう。

めんどくさい科学

「○○は××であることが科学的に解明されました」――漫然とインターネットを眺めていると、こんな言い回しを目にすることがある。ふーん、と思った勢いで何気なくページを開くと、そこには研究のあらましが書かれている。○○の正体はこれまで知られていなかった。どこどこ大学の研究チームがそれに目をつけ、対照実験をおこなった。かれらはなんやかんやという事実に気づき、それを論文にまとめた。そして、プレスリリースとして発表した。

 

端的に言えば、科学の指定するプロセスにかれらは則った。すばらしいことだ。科学という仕組みは、誤った情報が正しいと信じ込まれないようにするためにかなりの注意と労力を割いている。論文は基本的に査読にまわり、いわゆるトンデモな主張はそこで容赦なく落とされる。査読者のたいていはまともな研究者で、つまり世界でもっとも、その分野の論文を見る目の肥えた人間だ。

 

そして思うに。間違いから科学を守るいちばんの仕掛けは、それ以前のところにある。というのも、科学のプロセスというのは非常に面倒くさい。だから特別な事情のない限り、わざわざ論文の体裁を整えて提出しようなどと言う気にはならないのだ。理論の人間であるわたしは、残念ながらただしい実験の手法というものに詳しくない。けれど、きっとそこにはあらゆる面倒がある。統計学的面倒、安全上の面倒、そして分野によっては、生物あるいは人間の倫理に関する巨大な面倒。むろん実験をしないからと言って、面倒が発生しないということは断じてない。論文を書くという行為にはさまざまな作法があり……それを身につけるのは、論文に書く内容を思いつき、論理を組立てるのと同等以上に難しい。

 

常人の詐欺や狂人の妄想は、ほとんどその段階で排除されているように見える。それら多種多様な面倒は、意図してか偶然か、アカデミアという村を外界から守るための防壁として機能している。もちろんそれは、外敵だけを傷つけるものではない。というより、中にいる研究者たちがいちばん迷惑をこうむっているのだ。なにせ論文を出すのがわたしたちの仕事で、そして論文を出すためには、それらの面倒な問題をすべてクリアしなければならないからだ。

 

面倒なのはいやだ。わたしはいやだ、きっとだれだっていやだ。引用なんてもの、なぜちゃんと書かなきゃいけないんだ。主結果とその証明を述べるのに、なぜイントロとかいう、とくに関係のない前置きをぐだぐだと書き続けねばならぬのだ。そもそも、正しいと分かっていることをなぜいちいち証明せねばならぬのだ。面倒が治安維持の役に立っていると十分知っているとはいえ、そう思うことは珍しくない。

 

そして、ふと思ったことだが。先行研究に対する敬意とかいうものは、案外こういうところから湧いてくるのかもしれない。内容とは関係なく、どの会議に通ったかでもなく、その論文が研究の流れのどこに位置づけられてきたかでもまったくなく。これが論文になったその過程で、著者たちは多大なる面倒を強いられている。作られたマイナスをゼロに戻すだけの、そんなつまらなくて非生産的な作業に対してなら、わたしは敬意を払える気がする。