確定した未来

未来は変えられるとロマンチストは言う。あたらしい技術の開発によって、あるいは世界全体の協調によって。未来は変わってしまうとリアリストは言う。あたらしく開発されてしまった技術が、現在の習慣を揺るがし、置き換えてしまうことによって。国家や国民といったものの定義それじたいが、次第に変化していくことによって。

 

具体的な未来がどうなるのか、それはだれにもわからない。百年後に人類は滅びているかもしれないし、二億年後にもまだ栄華を極めているかもしれない。けれどどちらにせよその世界は、現在わたしたちが見ているこの世界とは大きく異なるものになっているはずだ。石器時代と現代が違うのと同じように……いや、それ以上に、未来は、変わり続ける。

 

そのことじたいは、おそらくだれも疑わないだろう。百年後か千年後か、とにかく長い長い時間ののちの世界を想像せよと言われれば、みな思い思いに妄想をふくらませる。事実とはよく想像のはるか先を行くものだから、その妄想はきっと、外れに外れる。変わらないと思っていた多くのことが想像もしなかったかたちへと変化する。そして逆に、必ずや滅びているだろうと思われた仕組みが、この現代にすら時代遅れだと考えられていた慣習が、なぜかそのまま残っていたりもする。けれども。

 

なにが変わってなにが変わらないかすら、わたしたちには分からないにもかかわらず。ならば現代のままと予想するのがもっとも当たる可能性が高いのだと言って、未来を現代とまったく同じだと想像するやつはまずいない。未来は、望む望まざるにかかわらず、変わるのだ。

 

さて。話を変えよう。未来が変わるとはどういう意味だろう。文字通りに受け取れば、未来がなにかべつの未来へと変化するという概念を意味しているようにも見える。けれど、おそらく実際にはそうではない。現代が、現代とはことなるなにかへと変化するという意味できっと、その表現は使われている。

 

さすれば。未来を変える技術というのは、現代と未来を区別するための示準化石だろう。その技術は未来のある時期に使われ、その時代を定義することになる。そしてさらなる未来には廃れるか、だれも気にも留めないほどに当たり前になって、新技術としての生を終える。未来を変える社会システムとは、未来の特定の時期に主流であった世の中の形態だ。

 

未来を変えるとは、なかなかロマンチックな響きだ。未来が変わってしまうと言われれば、諸行無常を感じざるを得ない。けれどそれはきっと、ロマンチックでも無常でもない。どんな時代にも、その時代を定義する技術があり、社会形態がある。そして必ず起こることを、ひとはロマンとも無常とも呼ばないのだ。

 

冷笑の夏

長かった冬の時代が終わり、冷笑主義の天下がやってきた。社会そのものを嘲笑うという選択は、いまやきわめて正当な態度になった。熱血、純情、希望。テレビから、ネットから、それらの忌まわしき感情は消えようとしている。そして素晴らしき冷笑の潮流が、素朴さのすべてを押し流そうとしているのだ!

 

かねてからわたしは、筋金入りの冷笑主義者を自称してきた。そのわたしが言うんだから間違いない、社会はようやく、わたしに追いついた。いまやわたしたちは、光の中で主張することができる。理想の社会とかいう夢を、ラブアンドピースとかいう希望的観測を、これ見よがしにバカにして一笑に付すことができる。きみの脳にはどんなお花が咲いてるのかな? きっといまでも、きみの将来の夢はケーキ屋さんかサッカー選手なんだろうね~。あっ、いまはユーチューバーが人気なんだっけ?

 

まあ、そんなキツいセリフは現実には心の中だけにとどめておくわけだけれど。とにかくまあ、脳味噌がお花畑なひとに、お花畑だと言える世の中に現代はなった。情熱と純粋さの暑苦しさを、希望と夢の盲目を、お涙頂戴の物語の、あからさまな作為性を。わたしたちはようやく、キャンセルするすべを手に入れた。なかなかまあ、生きやすい世の中になってきたものだ。

 

しかしながら。最近の冷笑主義いけ好かない。某掲示板の元管理人だとか、偉大なる冷笑主義者たちが光の世界に出てくるようになったことそれじたいは、まだいい。冷笑主義が市民権を得たことも、いい。けれど最近のニワカたちは、偉大な冷笑主義者たちの劣化コピーだ。やつらは有名な冷笑主義者を神様のように崇拝して、ことばをなんの疑いもなく受け取ってしまう。そんなんで冷笑主義と言えるのか。なにをどうバカにしようか、自分の頭をひねって考えるのが、冷笑主義ってものじゃあなかったか。

 

ああ。つくづく面倒なやつだ。当たり前である。わたしは自称・古参の冷笑主義者だ。そして冬の時代を知るものとはだれもかれも、このうえなく面倒くさいものだ。それがおよそ、どんなことに対するものであっても、古株とは、そう。そして新参者は、老人たちの目を見て界隈から去る。

 

まあ。新人が去り、文化が廃れてゆくことくらい、べつにどうでもいい。というか、止められることでもない。なにせわたしは、冷笑主義者にして宿命論者だから。どんな思想もこうして滅びる。冷笑主義だけが、その流れを追ってはいけない理由はないだろう?

 

まあ。せいぜいそれまで、冷笑の夏を謳歌していよう。

状態と権利の多様性 ④

話をまとめよう。多様性の素晴らしさと広く呼ばれるものは、おおまかにふたつに大別される。ひとつは、権利としての多様性。すべての場所にすべてのひとが、みずからを定義する属性に影響されることなく足を踏み入れられる、その権利の重要さだ。

 

権利としての多様性のないことは、世界がまだまだ偏見に満ち溢れているという不完全さの象徴としてとらえられる。もっともこの意味で、真なる多様性の訪れる日はまず来ないだろう。いつの時代も、現代とは権利のない世の中として定義されるからだ。不完全は悪だと権利活動は言っている。さすれば、世界は永遠に悪であり続ける。

 

もうひとつの多様性とは、状態としての多様性。言い換えれば、多様であることそのものが生み出す価値だ。さまざまなバックグラウンドのひとたちが、同じ場所にいる。文化的に多様な集団はきっと、均質な集団ではけっして達成しえなかったなにかを次々と達成することができるというのが、広く信じられている多様性の夢だ。

 

状態としての多様性がないことは、必ずしも悪ではない。状態としての多様性の本懐は、多様であることからなんらかのメリットを享受できることにあるのだ。そのメリットを受け取らないという選択肢は、だれかを差別し続けるという選択肢と違って正当だ。特定の視点に立てばかならず見えてくるはずのものが、かりに一様性のせいで見えなかったところで、それでもいいものをつくることはできるかもしれない。

 

けれどもそのふたつはよくごっちゃにされる。状態としての多様性を求めるために、ひとはときに権利のロジックを持ち出す。あるいは逆に、権利としての多様性への闘争を、状態の問題にして矮小化する。これらが意図されてのものなのか、それともたんに区別がついていないだけなのかは定かではないが、とにかく現にひとはそうしている。

 

まあ、無理もない。それに極端に抽象化すれば、両者は同じかもしれない。

 

多様性を食べることに喩えるなら。権利としての多様性とは、だれもが栄養のある食事にありつけるような状態だ。味はさておき、とりあえず生まれや身分を理由に、権利という栄養が足りなくなりはしない状態を目指しているわけだ。状態としての多様性は反面、食事という経験をよりよくするための仕組みだ。通常のメニューにプラスして、多様性という味玉でもトッピングするかどうかといった選択だ。

 

そしてそれらは、ある意味では同じことだ。単に、食事を増やすかどうかという問題。

 

そうやって解像度を下げて、トッピングと炊き出しを同列に語ること。それは本当に、良くないことなのだろうか?

 

きっと良くないのだろう、とわたしは思う。富めるものの論理は貧しいものに通用しないし、その逆もしかり。わたしはそう信じるから、権利と状態を区別しようと思う。けれどそれでも、どちらも達成されたほうがいいことだとしてそれらを同一視するのならば。

 

統一的な理想のために戦ってくれるのならば、まあ、それはそれでいい。

状態と権利の多様性 ③

多様性とはきわめて神聖な目標で、なににもまして必ず達成されなければならない。無条件で素晴らしいものであるところの多様性は、いついかなる場合であっても、歴史の正しい側に立っている。究極の多様性というユートピアは、万人の目指すべき目標だ。そしてその実現に異を唱えるものは、異論の程度に関係なく、すべて反逆人である。

 

おそらくこういう認識が、いまの世の中にはある。今回はこの認識を、あえて罪だとは言わないでおこう。自分の正しさを妄信し、刃向かうものを吊るし上げるなんて、べつに大したことではない。どんな運動だって、およそ主義主張というものがあるなら、多かれ少なかれきっとこういう形態を取るはずだ。みずからの敵と真摯に議論するなんて、できるひとはそうそういない。やるひとはもっと少ない。敵は滅ぼすものであって、敵の話とはまったく、耳を傾けるに値しないもの。そう素朴に信じることすらできない残念なやつらは、そもそも運動に身を投じたりはしない。

 

けれども。その絶対主義的な認識の刃は、敵だけではなく味方にも向けられている。そのことは、はっきりと罪であるようにわたしは思う。

 

状態としての多様性と、権利としての多様性。これらは全然ことなる概念だとわたしは思うけれど、切り離されて語られることはほとんどない。多様性を求めるひとたちは基本、これらを一緒くたに扱う。いわく、「○○属性のひとが少ない環境が、健全な環境であるはずがない」。無根拠もはなはだしい暴論だけれど、この議論は通る。必要なはずの検証のプロセスをすべてすっ飛ばして、唯一の真実だということにしてしまえる。それもすべて、権利の問題では本来ないはずのものを、権利の問題にひもづけてしまうからだ。ふたつの多様性が、おなじ「多様性」ということばで表現されるのをいいことに。

 

この歪みが意図されてのものなのか、わたしには分からない。いや。おそらく意図はないのだろうと、わたしは思う。というのも、ふたつの多様性は一応、切っても切れない関係にはあるからだ。権利としての多様性が最大限に尊重された世界では、状態としての多様性は自然に達成される。状態としての多様性が実現されていない世の中とは、結局のところ、権利がまだじゅうぶんに保障されていない世の中のことだ。状態とは、権利の度合いをあらわす指標になりうる――女性比率だとか留学生比率だとか、その手の指標を満たすことそれじたいは、特に意味を持たないとしても。

状態と権利の多様性 ②

権利としての多様性について、本質的に語るべきことは少ない。人種や性別をはじめ、みずからの意志では容易に変更することのできないそのほかすべての性質から、ひとは完全に自由であるべきだ。それらの性質はだれかがなにかになるということを一切阻害してはならず、したがってあらゆる選抜は、そういう生得的な性質とは独立に行われなければならない。ユートピアとはつまり、個々人の持つすべての性質が、あらゆる場面においてまったく考慮されなくなった世界のことだ。実際にそんな世界を作るのはもちろん困難極まる作業だし、そんなはるかな夢が実現されるとはだれも思っていないけれど、とにかく理想はその世界。そこへと向かう道筋に関してあれこれ言い争うことはあれど、高遠な目標がなんであるのかについては、きっと議論の余地はない。完全な均一性こそが、目指すべきゴールなのだということには。言い換えるなら、権利としての多様性とは絶対の正義だから、純粋な理念上の問題は発生しえないわけだ。

 

しかしながら。状態としての多様性に関しては、おそらくそうではない。その場にいろいろなひとがいるということの是非には、その場に参加する権利をいろいろなひとが持っているということが自明の正義であるのとは違い、議論の余地がある。何歳からでも高校に入学することができる、その権利があることはたしかに重要だ。けれど高校が、実際にありとあらゆる年齢の生徒がともに学ぶ空間だという状況は、果たして手放しで善いことだろうか? メリットとデメリットを比較して、本当にメリットが勝るのだろうか? 状態としての多様性はきっと、常に尊重すべきものであるとは言えないのではなかろうか?

 

状態としての多様性に、権利の問題は関与しない。権利が関与しないのだから、損得を勘定に入れることが許される。権利としての多様性の場合には自明であった命題、多様性が重要であるという命題は、もはや自明の真理ではない。

 

それでも多様性を求めるのなら。多様性は、一様性との比較の俎上に上がるべきだろう。多様性は戦わねばならない、議論して勝ち取らねばならない。いろいろなひとがいるという状況が、具体的にはなにを生み出すのか。一様性の持つ快適さを、上回る価値を提供できるのか。多様性が生み出すとされているものは、一様な集団ではほんとうに達成されえないことなのか。

 

けれども。そういう議論がおおっぴらにされているところを、わたしはあまり見たことがない。

状態と権利の多様性 ①

現代は多様性の時代だ。街をあるいていて外国人を見かけるなんてことは、いまどきもう珍しいことではない。コンビニに行けばさまざまな国籍の店員が会計をしてくれるし、大学院の講義はけっこうな数、英語で行われている。家庭では共働きが当たり前になり、これまで男性だらけだった職種でも、すこしずつ女性の割合が上がってきている。

 

アファーマティブ・アクションなんてことばも、よく聞くようになって久しい。特定の属性をもつひとが何らかの地位を目指しやすくするため、そのひとたちの採用基準をわざと低めに設定する施策のことだ。もっともその是非についてはいま、さまざまな議論が戦わされている。論者たちの発言はさまざまで、思わず納得させられる意見からどう考えても私怨に過ぎない暴言までピンキリだけれど、今日はそのことには深入りしないでおこう。社会を上げた議論の的になるということは、それだけ多様性というものが、わたしたちの生活に深くかかわってくる概念になったという証拠だろう。

 

さて。けれど多様性というものは、しばしばごちゃまぜにされて語られてしまう。現にいま、わたしはわざとそうしてみせた。けれどきっと、ほとんどのひとは、これらの違いには気づかなかっただろう。それだけごっちゃになっているのだ。

 

街や研究室に外国人が多い、職場の性別比率が均等に近い。こういう意味での多様性は、「現実に多様なひとが存在する」という多様性だ。状態としての多様性、と言ってもいいかもしれない。この多様性とは、多様である組織や集団の一員として自分たち自身を眺めてみたときに、その場所が多様であると感じるその感覚のことだ。

 

特定の属性をもつひとを救済する、と言った多様性は、しかしながらそうではない。そういうことを語るとき、多様性ということばは、社会的弱者が社会的強者とおなじだけの恩恵を受けられる権利という意味で使われる。現状には格差があり、だから多様性は達成されていない。そして多様性が達成されるのは、社会的弱者が、自分たちの外部にあるなんらかの集団へと入ることができるようになったときだ。重要なのはあくまで門戸がじゅうぶんに開かれるということで、いざ所属したあとに覚える、当事者的な感覚のいかんは関係ない。この多様性を、そうだな、権利としての多様性、とでも呼ぼうか。

 

権利としての多様性を守れという意見には、かなり分かりやすい正当性がある。なにせそれは、権利の問題なのだ。すべてのひとが、なりたい自分になれる世界をつくろう。すくなくとも、みずからの能力や努力とは関係のない部分では、そのための障壁が変わらない世界をつくろう。現代にこれが正義であることには、なかなか疑いの余地はないだろう。

数学的信念

いつどこでのことだったかはもう思い出せないけれど、算数だったか数学だったかの授業で、先生がこんなことを生徒に問うた。それなりに頭の良いところに通っていたから、きっとその場のだれもが答えを出せるどころか、なぜそんなことを聞くのか訝しみすらしたことだろう。小学校の低学年でもわかるような質問、だれもが簡単に絵を描ける平面図形の問い。「二等辺三角形の定義はなんでしょう?」

 

いつのことか思い出せないとは言ったが、きっとそう大きくなってからのことではなかったのだろう。高校生くらいにもなり、それなりの自尊心と羞恥心を心に宿すようになった生徒は、簡単すぎる問題にはあえて答えようとはしないものだ。名門校と呼ばれる高校に通い、賢いとか非常識だとかいう褒めことばをずっとかけられつづけて育ってきた若者たちにとって、二等辺三角形の定義なんて答えるほうがはずかしい。

 

けれどそのときはまだ違った。わたしたちはまだ若く、素直だった。だれかがすぐに問いに答え、そしてそのことをだれも疑問に思わない。その生徒は、もしかしたらわたしだったかもしれないが、とにかく言った。「角度のうちのふたつが等しい三角形のことです」

 

「それは性質だね」先生は答えた。「定義はどれだ? 二等辺三角形は、どういうふうに定義される?」賢明にもかかわらずまだ算数を忘れていない読者ならばもう気づいていることと思うが、先生はこう答えさせたかったのだ。「二等辺三角形の定義は、辺のうちのふたつの長さが等しい三角形のことです。角度のうちふたつが等しいことは、この定義から証明できます」

 

まあ、確かに、そうだ。厳密に言えば。生徒は数学的に間違っていて、先生は数学的に間違っていない。これは算数か数学の授業なのだから、数学的正しさはなににもまして優先される。正しい態度。なにも間違ってはいない。

 

けれど当時のわたしは、なんだかもどかしい気持ちになったことを覚えている。そんなことを言われても、なんだかこう……。そうだな。それは数学ではあるかもしれないけれど、わたしが数学だと思っているものの範囲の外にある。そんなことをあいまいに、思った記憶がある。

 

いまならそのもどかしさは説明できる。数学的な面でもそれ以外の面でも、思えばわたしはずいぶん成長したものだ。その両方が育たなければ、けっしてあの感情は説明できなかったろう。そう思える説明がある。

 

そう。わたしは許せなかったのだ。数学的には、同値な定義のうちどれかが正しい定義かを決めねばならぬということを。数学ではないことばに翻訳するならわたしには、数学というものが人間が恣意的に決めたなにかを問うことなど、あってはならないという信念があった。

 

数学は神がつくり、数学の記述は人間がつくった。そう言われることがある。数学を語るために神なんていう数学的でないものを持ち込んでいる時点でわたしはその言説が好きではないけれど、それでも近しいことは感じているようだ。数学で問うていいこととは、数学の自然に存在する部分だけであり、人間の作った記述のほうではない。そういう信念が、どうやらわたしにはある。

 

もっとも、それが自明な信念ではないことは知っているつもりだ。数学の存在と記述を分けられるかどうかという問題が、およそ哲学的な問いとはそうであるのと同じように難問であることは理解している。けれど、そんなことはどうでもいい。

 

さいころのわたしが感じていたもどかしさ。それはきっと、数学でも哲学でもない問題なのだ。