疲労の正体

疲れた。

 

とはいえこの数日間、これといってなにか大変なことをしたわけではない。バスで移動して、しかるべき場所に座ってぼーっとして、バスに乗って帰るだけ。たまに英語でスタッフのひとに話しかけたりはしたけれど、まあそうたいした時間でも労力でもない。時差はないに等しい。夜だってしっかり寝ていた。道路こそ混んでいたけれど、スケジュールには余裕があった。シャワーも快適だった。ごはんも結構、おいしかった。

 

けれど、確実に感じているこれは疲労だ。背中は凝り固まり、タイピングの腕を動かすたびに見えない重みがのしかかる。脳は深く考えることを拒否し、安易な結論と妥協に飛びつく。帰る前でこれなのだ。経験上、日本に帰ったらきっと、布団に倒れこんで動かなくなる。

 

海外というものは、どうしてこうも疲れるのだろう。気付かないところでずっと気を張っているからだとはよく言われるけれど、その説明もなかなかしっくりこない。自分では感じることのできない緊張に、じゃあどうしてあとから気付くことがあるのか。かりに気付いたとしてどうして、次回から気を張らないための工夫をだれもしようとしないのか。ずっと座っているだけの旅程なら、いつもそうしているように、ただずっと座っていればいいじゃないか!

 

まあ、そうはいっても疲れているのは事実だ。ほかに説明が思いつかない以上、とりあえずその一般的な理解を受け入れておくしかあるまい。受け入れたうえで、前に進むしか。では、この手の疲れから解放される日は、はたして来るのだろうか。

 

海外出張を重ね、海外が国内と同じような庭になる日が来るとして、そのときわたしは疲れないのだろうか。留学や駐在で海外に居を構えたなら、疲労をため続けることなくその一年を過ごせるのだろうか。あるいは時代が経ち、日本がまるきり別の国になったとして。その未来をわたしは快適に過ごせるだろうか。

 

つまり。問題は果たして、慣れるかどうかというところにあるのだろうか。

 

そうでないとは考えにくい。疲れるとはけっして土地そのものの性質ではないはずなのだから。日本だけが疲れない土地で、世界中で日本人だけが特別疲労知らずであるなんて、そんな馬鹿なことは起こらない。慣れ親しんだ土地には疲れない、原因は分からないけれどそれは、きっと正しい主張だ。

 

そしてこれまでの話をまとめるならば、慣れていることとはつまり、余計なところで緊張をしないことだと定義できるかもしれない。

校長先生の話

小学校のグラウンド。全校生徒が集められ、クラスごとに二列に並んでいる朝の八時半。前から後ろへ、そして向かって右から左へだんだんと高くなっていく頭の位置が、この群衆の中にやけに整然とした印象を与えている。直立不動ということはけっしてないし、身体を掻いたり足先をほぐしたりしている生徒だって多いけれども、小学生なるものの奔放さをもってすればそれでも、驚異的なまでの規律がある。

 

壇上にはひとりの老人が、彼らの視線を一身に集めている。すくなくとも、集めている風にふるまっている。威厳に満ちた声で、彼は訓戒を垂れる。昨今の時事問題になぞらえ、また最近の校内での話題を踏まえ、ゆっくりと、確かな声で話し続ける。

 

長年の人生経験を載せたその深く広いことばの数々は、次世代を担うだろう若者の心に響く。あたたかで確かな理解として、あるいはなんだか、妙に気に触れる不協和音として。理解に至ったことばは彼らの中で育ち、やがて来る青年期を通じて、彼らの身となり糧となってゆく。わからなかったことばはそのまま異物として残りつづけ、長い時が経ってからのある一瞬、元小学生は突如としてその意味を理解する。大人というもののもつ知見の深さ、人生経験の価値に、かれらはそこで気付く。

 

とかいうことには、まあ、基本、ならない。

 

校長先生の話とは結局、長くて退屈なものの代名詞だ。小学生にとってはもちろんそうだし、大人になった今でもそれは変わらない。それがやたらと長かったこととか、長すぎるから計ってみたその時間の数字とか、あるいは話の最中で貧血でぶっ倒れた同級生のこととかは憶えているけれど、話の中身はまったく覚えていない。そしてなにも、わたしが特別不真面目だというわけでもない。だってだれだって、きっとそうだろう?

 

つまるところ話したがりの老人とは、ただ単に迷惑な存在にすぎない。自分の人生経験を伝授しようとか、思想を伝えようとしているとかいう場合は特に、だ。彼らの頭の中ではきっと、彼らのことばはありがたいのだろう。重要なのだろう。その気持ちは分かる、だってわたしにだって、彼らのように語れてしまうことはあるのだから。けれどいかにありがたいからといって、そのことばが彼らの思い通りに、ありがたがってもらえることはけっしてない。

 

そのことはみな分かっているはずである。長い話に退屈な思いをしたことがないひとなんて、まずいないのだから。けれど、歴史は繰り返す。しかるに世の中は、傲慢で独りよがりな人間ばかりなのだろうか? 無為でつまらない話をさんざん聞かされておきながら、自分の話だけは違うと思い込んで、わかりきった退屈を再生産する人間ばかりなのか?

 

そうでなければ説明はつかない。だからきっとそうなのだろう。そしてわたしが将来、もしそんな怪物になろうとしているならば、誰かわたしを止めてほしい。この日記はそうなったときに、わたしを説得してもらうための刃物である。

退屈耐性

二時間目の授業が終わると一目散に校庭に飛び出し、十五分間の休みにドッジボールを満喫していたあの頃の元気はもう、わたしにはない。なにもわたしだけから行動力が失われたとかいうわけではなく、わたしのまわりにいる誰にだって、ない。大人とは基本的にそんな行動を取らない生き物だし、その理由だって別に、大人という存在はかくあるものだと社会が宿命付けたからとかではない。わたしたちは勘づいている、大人だからという規範意識とか世間体とか、仮にそういうものと無縁になれたところで、わたしたちはきっと遊ばないのだろうと。

 

若い頃に馬鹿にした世代。遊びといえば飲み会のことを指し、それ以外にいくらでもあるはずの楽しいことを自主的に遠ざけてゆく世代に、わたしたちは近づいてゆく。ひとがそうなってしまう理由を若い頃のわたしは不思議に思い、きっと大人になれば人と話すことがものすごく楽しくなるのだろうと無理矢理に推測していたけれど、どうやらそれも間違っている。大人はとにかく、遊びに貪欲ではないのだ。貪欲さを極限まで失いつつ、それでもなんとかやっていける遊びが、たまたま飲み会であるに過ぎないのだ。

 

さて。けれどまあ、遊びが好きすぎるままでいるのもそれはそれで面倒だ。中休みにボールを取り合い、競うように昼食を食べて外へと走る人間の相手を、いまのわたしはしたくない。静かにしててくれ、と多分思う。授業終わりの教室、淀んだ空気を入れ替えてちょっと息をつく暇くらい、与えてくれないか。

 

良く言えば、わたしたちは退屈への耐性を手に入れた。なにもしなくていい時間をなにもせずに過ごすということができるようになった。それを成長と呼びたくは正直ないけれど、定義上まあ、成長ではあるのだろう。じっとしているという能力が身についたのだから。

 

飛行機に乗って、降りる。イベント会場で、自分の順番を待つ。あるいは仕事は終わっているけれど、定時になるまで帰らないでいる。子供にとっては永遠だとされている時間を、いまのわたしたちは過ごせる。没頭できるなにかにその時間を充てることによってではなく、単に、なにもしないでいることによって。身に付けたくて身につけたわけではないだろうこの能力も、まあなかなかに便利なものだ。人生はたしかに楽しくはなくなったが、同時に楽にもなっている。

 

まあ、楽なのは、いいことだ。

 

どう楽しむかに頭をひねっていた子供は、どう楽をするかに頭をひねる若者になり、やがてどちらにも頭をひねらない大人になる。これまでに逸した機会の無数にあることをわたしたちは知っていて、楽しむにも楽をするにもこだわりがなくなってゆく。気づかず失っていたものの列に新たに何かを加えることに、抵抗がなくなってゆく。行動基準を決める理由として、面倒だからに勝てるものはないのだと学んでゆく。

 

その先の世界は、きっと味気ないだろう。全然、面白くはないだろう。けれど面白がることに興味を失った人間にとっては、それが一番いい。

 

 

移動疲れ

おかしい。何もしていないのに、疲れる。ちょっと早起きして電車に乗って、ちょっと手荷物を検査されて、飛行機に乗り込んだらあとはずーっと座っているだけなのに、なぜだかすごく、疲れる。

 

きっと信じてくれるだろうけれど、本当に何もしていないのだ。座席は快適だったし、機内食もまともだった。時差も全然ない。変な気を起こして、空き時間がたくさんあるから何か有意義なことをしようと張り切って、インターネットのない長時間を満喫しようとなんて、してない。いや、最近はネットもあるんだったっけ。まあ、そんなに関係のない話。

 

国際経験はそれなりにあるから、移動が疲れるものだということはよく知っている。国際線の機内でできることといえばせいぜい、寝よう寝ようと奮闘するか、ただ黙ってフライトマップを見つめ続けているかくらいだということだって、しっかり経験から学んでいる。時間の無駄なんかじゃあない。だってその時間はずっと、移動というれっきとした目的のために費やされている。

 

でも、なぜなのか。それがわからない。なにもしていないのに、なにもしないことを選んでいるのに、どうして疲れるなんて羽目にあうのか。

 

距離に応じて疲れが溜まるなんてフライトマイルみたいなシステムに人体がなっていないことは、さすがにわかる。飛行機を降りるたびに思うのだが、ただ座っているだけで言語からなにから違う土地に来ているというのは直感に反する。直感に反するもの、人体が理解しているはずがない。だから、海外だから疲れるわけではきっとない。

 

座るだけで疲れたりはしないってことも、わかる。世のどこでもされているアドバイスのひとつに高い椅子を買えというのがあるけれど、わたしの腰はとんでもない椅子音痴なようで、わたしが生まれる前に家族が数千円で買ってきたらしいビジネスチェアに一年中座り続けてびくともしない。空気が薄いと疲れるというのは……あるかもしれない。でもまあ、こじつけるだけならいくらでもできるから、そんな説明に意味はない。

 

そうじゃなくて、納得のいく説明がほしい。科学的な説明と言ってもいい。なにがどうやって、疲労へと寄与しているのか。なんのためにひとは疲れるのか。移動をやめて定住せよという、文明前の本能のお達しなのか。そもそも、いったい、疲れって、なんなのか。

 

まあわかったところで疲れなくなるわけじゃないんだろうし、どうでもいいっちゃどうでもいいんだけど。でもまあ、こういうどうでもいいことがいちいち気になるくらい、移動ってのは暇なのだ。

移動疲れ

おかしい。何もしていないのに、疲れる。ちょっと早起きして電車に乗って、ちょっと手荷物を検査されて、飛行機に乗り込んだらあとはずーっと座っているだけなのに、なぜだかすごく、疲れる。

 

きっと信じてくれるだろうけれど、本当に何もしていないのだ。座席は快適だったし、機内食もまともだった。時差も全然ない。変な気を起こして、空き時間がたくさんあるから何か有意義なことをしようと張り切って、インターネットのない長時間を満喫しようとなんて、してない。いや、最近はネットもあるんだったっけ。まあ、そんなに関係のない話。

 

国際経験はそれなりにあるから、移動が疲れるものだということはよく知っている。国際線の機内でできることといえばせいぜい、寝よう寝ようと奮闘するか、ただ黙ってフライトマップを見つめ続けているかくらいだということだって、しっかり経験から学んでいる。時間の無駄なんかじゃあない。だってその時間はずっと、移動というれっきとした目的のために費やされている。

 

でも、なぜなのか。それがわからない。なにもしていないのに、なにもしないことを選んでいるのに、どうして疲れるなんて羽目にあうのか。

 

距離に応じて疲れが溜まるなんてフライトマイルみたいなシステムに人体がなっていないことは、さすがにわかる。飛行機を降りるたびに思うのだが、ただ座っているだけで言語からなにから違う土地に来ているというのは直感に反する。直感に反するもの、人体が理解しているはずがない。だから、海外だから疲れるわけではきっとない。

 

座るだけで疲れたりはしないってことも、わかる。世のどこでもされているアドバイスのひとつに高い椅子を買えというのがあるけれど、わたしの腰はとんでもない椅子音痴なようで、わたしが生まれる前に家族が数千円で買ってきたらしいビジネスチェアに一年中座り続けてびくともしない。空気が薄いと疲れるというのは……あるかもしれない。でもまあ、こじつけるだけならいくらでもできるから、そんな説明に意味はない。

 

そうじゃなくて、納得のいく説明がほしい。科学的な説明と言ってもいい。なにがどうやって、疲労へと寄与しているのか。なんのためにひとは疲れるのか。移動をやめて定住せよという、文明前の本能のお達しなのか。そもそも、いったい、疲れって、なんなのか。

 

まあわかったところで疲れなくなるわけじゃないんだろうし、どうでもいいっちゃどうでもいいんだけど。でもまあ、こういうどうでもいいことがいちいち気になるくらい、移動ってのは暇なのだ。

旅行禁止令

これまで当たり前のようにやっていたなにかが禁止されたとき、わたしたちはどうするか。新しい規則といえども普段とは違ってうわべだけのものではなく、実際に強大な効力を持っていた場合、どういうふうにふるまうか。これまでの習慣を守るためにルールを破るか、それとも、素直に従って新しい生活様式を受け入れるのか。

 

それはもちろん、なにが禁止されたかによるだろう。わたしは従いますとか従いませんとか、そう一概に言えるものではない。禁止されたものが自分にとって重要なものだったのなら、わたしたちは迷わずルールを無視する。全然重要でない、惰性で続けてきたようななにかであれば、わたしたちはルールを順守する。そしてその中間なら……わたしたちは迷い、結局、守るか破るかはその都度判断しよう、ということになる。

 

さて。なにが禁止されたのならばルールを破るのかというのは思考実験のいいテーマだけれど、その問いに具体的に答えようと試みるつもりはない。わたしの観測からすれば、ひとは一般に、そういう状況を想像している段階ではルールを破ると主張する。けれど妄想段階でいくら堂々としていたひとだって、実際の決断の場面になると、破る破ると言いながら結局従っていることが多いように見える。将来の自分がどういう決断をするかというのは、実際にそのときになってみないと分からない。だからまあ、思考実験なんてくだらない。

 

けれど、すでに決断を分析するならばなにが言えるだろう。わたしたちが特に抵抗なく守ったルール、ルールを守っている自分をそう苦々しく思わなかったルール。それは自分自身が、禁止されたその要素をあまり重要視していなかったことを意味しているだろう。失って初めて重要さに気づくものがあるとはよく言われるが、失ってみて初めて、どうでもよかったと気づくものだってたくさんある。

 

明日からわたしは海外である。例のウイルスが跋扈する前はけっこうな頻度で外国へと飛んでいたわたしだけれど、むろん禁止されていた時期は行っていない。一昨年の一月、流行のぎりぎり以前にアメリカに行ってから、つい二か月前まで日本から出なかった。

 

けれどべつに、海外が恋しくなるということはついになかった。

 

海外に行くことは、ある種のステータスとしてみなされることがある。自分がやろうとしていることが、日本に収まり切らなかったことの証明として。それとは別に、純粋に海外経験を愛する気持ちがある。そしてその気持ちは、海外というステータスを得たい気持ちと簡単には区別できない。

 

失って初めて気づくことがある。海外が禁止され、ステータスとしての機能までもが一時的に失われた結果、わたしは海外を待ち望まなくなった。つまりわたしは、海外がそう好きではなかったということ。海外に行くのはきっと、行った国の数を競うためだったということ。

 

まあ。とはいえ別に、旅をしなくなるわけではない。わたしが海外に行く理由が、海外が好きだからではなかったとしても、わたしは海外に行く。仕方ない。だって、用があるのだから。

素人タイムリミット

新しい環境に飛び込んで、聞いて知っていただけの景色の実物を見る。これまでの自分にとっては関係のない場所、世界の誰かがよく知らないなにかをやっている場所だったところが、その日から自分の持ち場になる。これまでと違う常識、違う風土に戸惑いながら、それでもひとりの初心者として、作業を進めて自分を高める。

 

そんな時期、ひとはとても楽しい。新しいことの連続の毎日、知らなかった知識がどんどんと身についてゆく日々。新しく身につけた技また技は、これまで自分が別の環境で学んできたいろいろな技とつながってまったく新しい地平を見せる。古い知識と新しい知識。そのどちらもがなければけっして導かれえなかった、知識の合作。そしてそれは往々にして、ふたつの知識の両方があれば、ごく簡単に導かれるものでもある。

 

おそらくそういう理屈で、素人はすぐに結果を出せる。世の中を変えるのは余所者だとよく言われるけれどそれは、余所者だけが自分自身のいる環境を外から見ることができるからに他ならない。そんな余所者は、来てまだ日が浅くなければならない。その新しい環境にまだ浸かり切っておらず、別の世界の考え方がまだ色濃く残っている、その分野の素人でなければならないわけだ。

 

さて。いろいろなところで研究をしていると、素人になる機会はそれなりにある。わたしにとってはまったく新しい問題をわたしは知り、まだその問題に慣れ切っていない状態で考える。うまくいけば、割とすぐに結果が出る――その分野とわたしという存在の邂逅そのものが、必然的に導き出した結果が。かくして素人は、素人だからこそ成果を出せる。ああ研究とは、かように簡単なものか。

 

けれど。分かり切ったことだけれど、素人が知ろうと故に結果を出せるのは本当に素人でいる間だけなのだ。

 

二か月。経験上、わたしが素人でいられる期間はそれくらいだ。飛び込んでから二か月間、常識を知らないわたしはいろいろなことを試すことができる。わたしが持っているすべての道具を、新しい世界に適用しようと躍起になっていられる。次に試すことのアイデアをまだ、使い果たさずにいられる。タイムリミット、二か月。常識を探り当て、多くの行動を考える前に棄却できるようになってしまう期限。

 

そしてそれを過ぎると、わたしの発想力はぱったりと止まってしまう。

 

なにをするとどう失敗するか。成功したもののなにが良かったのか。二か月が経過し、新しい世界がわたしを受け入れてしまったあとでは、そういうことが一般常識のようにぼんやりと分かってくる。思いつくほとんどのアイデアは、すでに試して失敗したものか、あるいは成功してもう再発明する必要がなくなったもののどちらかになってしまう。飛び込んだときは肥沃だったアイデアの源泉は、もうすっかり枯れている。

 

同じ問題に長く悩み続けることは、よく研究者の美徳とされる。ひとつのことへの集中力、そして忍耐力は賞賛の的だ。けれど残念ながらわたしは、どうしてそれで結果を出せるのか分からない。二か月を超えた先に新しく見えてくる世界があることを、わたしはまだ納得できていない。