数学を学ぶ必要性。限りない陳腐さの正体。

聞き飽きたという感想すら聞き飽きるような話題というのは世の中にたくさんあって、それでもひとは、懲りずにその話をし続ける。つまるところよく挙がる話題とは、いかに陳腐であってもひとを惹きつけるだけの魅力があるのであって、魅力的だからこそわたしたちは、その話を聞き飽きている。かくいうわたしも、もちろん全力で退屈を表明するわけではあるが、幾度となく味わった潮の流れに結局、最終的には再び流されていってしまうわけだ。

 

そんな話題のひとつが、数学を学ぶことの是非についてだ。話題の発端は毎度決まり切っていて、高校三年間を数学とはやく別れたい一心で過ごしてきた誰かが、数学は日常生活の役に立たないのだから学ぶ意味などなかった、と、空虚な感情をついに爆発させるわけだ。それがコンプレックスの発露なのか、それとも熟考の末の結論なのかはまったく定かではないが、不思議なことにおおかたの場合、こういう主張は当の高校生ではなく、思春期特有の恥じらいから完璧に解放された年頃の大人からなされる。

 

三角関数微積分など日常生活の役には立たぬということは、なにも大人にならねば気づかぬことではない。理系学問を生業にしないたいていの高校生は、数学の初歩を学ぶと同時に、それが大学受験以降、みずからの人生と接点を持たぬだろうことにすでに気づいている。その気づきが確信にまでは至らないとしても、思春期とはとかく背伸びをしたがる時期だから、近い将来の数学との絶交について、すくなくとも確信めいたことを口走りはするわけだ。

 

だからこそ、大の大人がわざわざそういうことを言う、ということに関して、わたしたちは何にもまして、子供っぽいと感じるわけである。

 

もっとも、そんな大人の主張も理解できぬわけではない。数学が日常生活の役に立たぬのはもっと早くに気づいているべき事実ではあるが、高校生というのはまた、来るべき未来への畏怖にも支配されているのである。すなわち、社会とは想像もつかないほど厳しく予測不能なものであり、彼らが訣別を切望した数学なる奇魔術に、再び関わらねばならぬ日が来ないとも限らない、と考えるわけだ。

 

そんな高校生が数学への嫌悪を、持ち前の慎重さによって隠し温め続けてきたと想像してみよう。社会に出てしばらく経ち、自分のまわりに数学の影のありそうもないことを知ってようやく、彼らは高校生じみた恐れから解放されるわけだ。数学を学ぶ意味などないという若く後ろめたい確信は、三十や四十になった彼らが、かならず答え合わせをするべき人生の重要問題であった。

 

そう解釈すれば、あの完全なる陳腐に対して、すこしは同情のしようもある、というものだろう。

毛を抜く ②?

……すこし落ち着こう。昨日書いたのは夜遅くだったから、どうやら大風呂敷を広げすぎたようだ。鼻毛を抜くのが人類への冒涜だなんて、上滑りもいいところだ。

 

さて。気を取り直して、話を進めていこう。

 

このご時世、くしゃみとか鼻水とかいうものへの風当たりはとてつもなく強い。

 

だが特に、くしゃみとは厄介なものだ。花粉症のときの症状を思い出していただければわかってもらえるのだが(日本に花粉症をわずらわぬ大人は存在しないから、これは全員に間違いなく伝わる比喩である)、そういう生理現象は、前触れもなく突然訪れる。それが電車の中だろうが授業中の教室だろうが映画館だろうが、一度くしゃみの気が催せば、もはやだれにも止めることはできない。くしゃみとは時限爆弾に近い――そして爆発までのカウントダウンは、わたしたちの手に渡った時点ですでに二秒を切っているから、どうにも対処のしようがない。

 

であるからして。わたしは最大限の抵抗として、爆発寸前の鼻腔をマスクの上からさらに押さえつける。顔のでっぱりに合わせてぴったりと曲げられた薄い板が、さらなる密着度をもって鼻の頭を締め付ける。

 

そして時は来て……しばらくのあいだ、わたしは周囲の、もの言いたげな軽蔑の目にさらされるわけである。

 

昨日の話に照らし合わせれば、それはわたしの、人類史を冒涜する態度への非難の目だ。もちろん昨日の話は誇張に次ぐ誇張にまみれているから、実際のところわたしは、某ウイルスの感染者ではないかという疑いの目を向けられているわけである。ほとんど家から出ない、したがって感染リスクも低いわたしは当然、その無言の非難を無根として否定したい。しかしながら、「前日に鼻毛を抜きすぎました」なんて事実を語れば、余計におかしな人だと思われるだけだから、そんなことはできない。

 

はあ。鼻毛を抜くとは、巡り巡って、社会的な愚行でもあるわけだ。

 

じゃあわたしは、どうして鼻毛を抜いてしまうのだろう?

 

答えは簡単。伸びていると、気になるからだ。

 

鼻毛は鼻の中から生えている。鼻の粘膜を保護するのが目的なのだから、それはそうだ。鼻の外から生えた毛が、鼻の穴を通って鼻腔内に侵入しているのだとしたら……気持ち悪いし、なにより、めちゃくちゃくすぐったいだろう。あまりに馬鹿げた仮定だ。

 

しかしながら、その馬鹿げた状況のちょうど反対は、現実に起こっている。すなわち鼻の中から生えた毛が、穴を通って、外気のもとへと顔を出している、ということはよくあるのだ。

 

じゃあ。抜くしかないだろう。涙腺を直接刺激するあの痛みも、慣れてしまえば心地よいものだ。だから、抜く。わたしは悪くない。悪いのは、抜かなければならない生え方をする、あのやけに力強い毛のほうだ。

 

俺は悪くない。悪くないから、くしゃみは甘んじて受け入れよう。鼻水も受け入れよう。季節外れに白く染まるゴミ箱もご愛敬だ。周囲の目を気にするのも辞め、箱ティッシュを持ち歩いて、万難を排していこう。

 

……言っていて悲しくなってきた。だから、こんなくだらないことはもう、二度と書かないことにしよう。

毛を抜く ①?

風邪でもないのにやたらと、鼻水が出る日がある。

 

花粉の季節でもないのにやたらと、くしゃみが出る日がある。

 

これが漫画ならちょうどそのとき、どこかの誰かが井戸端会議を開催して、わたしの恥ずべき過去について、喧々諤々の議論を戦わせている。現在進行形で恥ずべき鈍感さを持つわたしにはエスパー能力が絶望的に欠如していて、結果、秘密裏に行われているその手の諜報活動を一切検知することができない。だがそれでも、わたしの鼻の粘膜は必然的にそれを関知していて……そしてその事実は巨大な咆哮の形をとって、半径百メートルの耳という耳に例外なく響き渡るはずだ。

 

はずではあるのだが、残念ながらこの世は漫画ではない。漫画と共通している現実は、恥ずべき存在であるわたしに一切のエスパー能力が欠如しているという点と、そしてそれとはまったく関係なく、わたしを発生源として半径百メートルに轟音が響き渡るという、そのただ二点に過ぎないのだ。

 

その代わり。現実とはもっと論理的にできており、すべてのことにはしかるべき因果が存在する。わたしの鼻水なりくしゃみなりといった問題も例外ではなく、そこにはきわめて明確で、そしてそれゆえに漫画のコマとしては一切の価値のない、お下劣極まりない原因が存在するのである。

 

そう。皆、知っての通り。世の中がいつもそうあるように。

 

わたしは。

 

前日に、鼻毛を抜きすぎたのである。

 

考えれば、鼻毛とはなかなかに神秘的な器官である。

 

人類は猿から進化する過程で、身にまとっていたほとんどの体毛を脱ぎ捨てた。外気に合わせた体温調節という明確な課題を前に、せっかくの優れた回答をあえて拒否するという蛮行。そんな奇行中の奇行に走った恒温動物など、地球上を探してもなかなか……いや、探せばいることにいるのだろうが、少なくとも……きっと、動物園上を探しても見つからないはずだ。

 

とにかく人類は、そこまでして体毛と訣別したかった。そして実際にそれを成し遂げた。近年になると、わずかに残ったはずの髪の毛まで、自ら捨ててしまう個体も現れた。人類はその動物性を象徴する毛状の器官に、みずからのどうしようもない生物性そのものに、ついに別れを告げることに成功した。

 

だが鼻毛は、どうしてか、捨て去ることができなかった。

 

鼻毛とは、他のなににもまして、どうしようもなく必要な器官だったからである。

 

こう考えてみれば、わたしの行動はとてつもなく冒涜的だ。人類の遺伝子の莫大な歴史の中には、間違いなくきっと、鼻毛という余剰を捨て去る突然変異もありえたはずだ。もしその先祖――正確に言えば、わたしたちの先祖にはついになることの叶わなかった個体――がもっとうまくやっていれば、わたしたちはまた一段と、高尚な存在になりえたはずだ。

 

しかし。現実ははんたいに、彼らのむなしい犠牲の上に成り立っている。それなのに不敬極まりないこのわたしという存在は、先祖たりえなかった人類の屍の上に立ちながら、彼らが生前に嫌というほど味わったであろう不愉快な生理現象を、自らの行動の帰結として追体験しているのだ。

 

これはまちがいなく、人類史への侮辱以外のなにものでもない。

陰謀論について ④

ほとんどの陰謀論は、だれかの誇大妄想に過ぎない。

 

そしてそれは、おそらくわたしの信じる論とて例外ではない。というよりむしろ、わたしはわたしに一種の分別を課しているのだ。そう。陰謀論者の例によらず、わたしはわたしの信じる陰謀論のみが真実だと解釈はしている。してはいるし、真実とはそういうたぐいの概念ではあるのだが、だからといって、わたしはそれを声高に主張するほど傲慢ではありたくない。わたしの信じるものに真摯であるならば、わたしは世界の中でわたしだけが理性的だとか、だからわたしの陰謀論は本物の陰謀の指摘なのだとか、とにかくそういうことを言い出さねばならない――そしてわたしは、そんな盲目的な自分にはなりたくない。

 

さて。では、わたしたち自身が信じている陰謀論が真実であると言い切る気がないのだとしたら。文字通りに解釈可能なことは文字通りに解釈する、という、理性と名の付くその行動規範に、わたしたちは従順であるべきなのだろうか。

 

いかに真実らしく見えるとはいえ、陰謀論はけっきょく陰謀論に過ぎないのだと、理性でみずからを納得させるべきなのだろうか? 納得しようと、すくなくとも試みてはみるべきなのだろうか?

 

それは違う、とわたしは思う。

 

陰謀論はたしかに、ほとんどが嘘っぱちだ。嘘のうちの大部分が、高校生レベルの物理学とか秘密裏の情報伝達の難しさとか、そういういわゆる常識と呼ばれるものによって簡単に否定される。常識を持つとはなかなかに難儀なことではあるにせよ、とにかくまあ陰謀論は、わたしがより強く信じるものと簡単に矛盾する。

 

だが世の中に陰謀なるものがまるで存在しないかと言えば、それはそれで、また明らかな嘘になってしまうのである。

 

この世界には諜報機関なるものが存在する。陰謀というものを、陰に隠れて歴史の糸を引く行為だと定義することにすれば、諜報機関とはすなわち陰謀を生業とする機関だ。映画の中の CIA の華々しさと比べれば、現実の陰謀とはおそらく気が遠くなるほど泥臭い戦いだろうとは思われるが、結局のところそういう想定とて、常識という皮肉を用いたわたしの憶測に過ぎない。

 

そして。現実に陰謀が存在する以上、陰謀論とはある意味、きわめて健全な態度だろう。すくなくとも、陰謀の具体的な中身が分からないからと言って、すべてを文字通りに解釈して妥当そうにも見える陰謀論を頑なに否定するという理性的な態度よりは、だいぶマシだ。陰謀とそうでないものの間に、常識的な線引きができてさえいれば、陰謀論はむしろ、世界を正しく理解しようとする助けになってくれるはずなのだ。

 

さて。ではどうやって、その線引きをしたらいいだろうか。

 

残念ながら、明確な回答はない。科学を比較的強く信じるものとして言えば、一応、科学に関する明らかな嘘を信じないことは可能だ。しかしながら科学が否定できるのは、あくまで科学の範疇のことだけだ。それ以外の、例えば物理的に可能なサイバー攻撃サイバー攻撃とみなすかどうかといった問題は、依然わたしたちの判断に任されている。

 

陰謀論と、発表通りの論理。それらが同様に確からしい場合、そう見えてしまう場合、わたしたちはどちらを信じればいい?

 

それはもう、ケースバイケースだと言うほかはない。だって、どちらが真実なのかは、明らかになりようがないのだから。

 

これこそが陰謀論の、一番厄介なところなのだ。

陰謀論について ③

さて。例の件に関しても、あなたは陰謀論を否定するかもしれない。

 

それが問題だとか言うつもりはない。あなたが気づいていない真実にわたしは気づいている、と、陰謀論者にありがちな主張をするつもりもない。つまるところ、額面どうりに受け取ることが原理上可能であるのならば額面どうりに受け取る、というのは真摯な態度のひとつではあるし、そして今回の場合、報じられたそのままを信じてもなんら不都合はないからだ。

 

だが。無能や規則で説明のつくことに意図を持ち出すべきではないという原則に反して、もしかするとあなたも、陰謀論のほうが正しいと思うかもしれない。むしろ逆に、当たり前に信じているからこそ、わたしがこうしてどうにか担保しようとしている相対性を、まどろっこしく思うかもしれない。

 

そう感じているのならば、すくなくとも、あなたはわたしと意見を同じくするものだ。わたしたちの脳内には共通の物語が宿っており、例の案件の隅々の事実までが、誰かの意図という精巧な歯車の連鎖でつなぎ合わされている。証拠に、あなたの感想を言い当ててみよう――わたしたちは既に疑いようのない真実にたどり着いているのに、どうしてわざわざ、ほかの可能性を検証する必要があるのだろうか?

 

ではその、「歯車の連鎖」を見てみよう。といってもまあ、単純なものだ(わたしたちの頭の中では、単純さこそが陰謀の存在を確固たるものにするのだ!)。以下に示すその「真実」は、わたしたち陰謀論者の目からすれば、わざわざ言われなくても即座に真実と分かるものにすぎない。

 

真実。大国の政府ないし諜報機関は、機密を暴くサイトの存在を快しとしなかった。だがゲリラ的な暴露活動は彼らの手にあまり、サイトの管理者を物理的にインターネットから隔離しておくしかなくなった。そこで彼らは、彼に架空の罪を着せることを思いついた。罪状は、そうだな……彼を取るに足らない人物だと思わせるような、カリスマ性をなるべく削いで、解放運動など起こらないようにできるような。そしてなにより、もしかしたら存在するのかもしれない被害者の手前、面と向かって嘘だと糾弾しにくいような、性的犯罪あたりにしておくのがいい……

 

と、まあ。こんなところである。最後のほうは(論理じたいにもまして)多分に妄想的だが、陰謀論者の想像力を舐めてもらっては困るのである。そして多分に妄想的であることを自覚してなお、彼の逮捕がサイトとは無関係であるという正常な思考より、わたしは妄想のほうを真実と信じるのだ。

 

さて、では最後の問いに移ろう。

陰謀論について ②

陰謀論を嘘だと見抜くのに、あなたの知識が一役買っているという考え。今日はこれを、逆方向から見てみることにしよう。

 

あなたはきっと馬鹿ではない。わたしもきっと、そう大した馬鹿ではない。だから多分、大方の陰謀論陰謀論と呼んで馬鹿にできる。

 

しかしながら、もしその態度が、わたしたちの知識によって担保されているのだとしたら。

 

知らないことに関して、わたしたちはいとも簡単に、陰謀論にはまってしまうのではないだろうか。自然現象あるいは偶然の一致の裏に、わたしたちは存在しない誰かの意志を見出してしまうのではないだろうか?

 

合理主義者であろうと願うものにとって、それはきっと、きわめて戦慄的な議論だろう。嘘を信じている誰かに対処するのは面倒なだけだが、自分が嘘を信じ込んで、他の誰かに言いふらす側に回るのは、その……、なんというか、わたしたちの尊厳の問題にかかわってくるからだ。

 

しかしながら、幸いなことに、反論はいくつか成立する。

 

もっとも簡単な反論は以下だろう。わたしたちはわたしたちの知らないことについて、判断を保留することができる。いわゆる『無知の知』があるのならば、たとえ知識がなくとも、陰謀論らしきものを信じないことは可能なのだ、と。

 

もうひとつの反論は、信じるのも仕方がないというものだ。多かれ少なかれ、誰でも嘘は信じている。たとえ自然現象か、あるいは無能で説明のつくことにでも、無意識のうちに意図を見出してしまうことはあるのだ。人間である以上それは仕方のないことであって、指摘されたときに訂正するだけの度量があれば、別段恥ずべきことでもない、と。

 

さて。

 

そのうえで、わたしが信じている、陰謀論らしきものをお披露目しようと思う。

 

十年ほど前、世界中のあらゆる機関の秘密文書を暴露して回るウェブサイトがあった。

 

そのサイトの標的は多岐にわたった。某世界大国の政府機関も例外ではなかった。というより、主な標的、と言った方が正しかった。自由な情報公開という正義に面と向かって異議を唱えるのが難しい一方、各機関はおそらく、多大なる被害を受けたことによる嫌悪を、かなり強い形で表明していた。

 

さて。そのサイトがある大きな機密を暴露したすぐあと。創業者が、性的犯罪の容疑で逮捕された。

 

正義について、ここでは語らないことにしよう。秘密文書を暴露する行動が果たして正しいのか、それを止めようとするのは正当か……などの問題については、すべてあなたの評価に任せる。ここで語りたいのは、現実に起こったことをどう認識するかという問題だ。各国機関が手を焼いていたウェブサイトを運営する男が、比較的検証困難な罪を問われて逮捕されたという偶然性を、わたしたちがどう処理するかという問題だ。

 

あなたがどう考えるかは知らないが、わたしは。

 

陰謀論の形をしているほうの説明を、事実だと信じている。

陰謀論について ①

たとえば明日、首都・東京の直下を襲う地震があって、わたしたちの住んでいた町がまるごと瓦礫と化したとする。あるいは、とある銀行のシステムが異常を起こして、いくつかの企業のかかわる経済の流れが完全にシャットアウトされたとする。それに起因する数々の悲劇に関しては立ち入らないことにして……まあとにかく、ないとは言えない非常事態に、わたしたちは困り果てるわけである。

 

困った人のやることと言えば決まっていて、自分を困らせた責任のある誰かを探し出すことだ。地震の例なら、たとえそれがいかに大きく対処不能な災害であっても、しかるべき(すなわち、青天井の)耐震構造のない街をつくった誰かに責任を押し付ける。銀行システムの例であれば、経済流通のコアとなるはずのシステムを壊れやすく作った誰かの、やはり無能を責めるわけである。

 

だがまあ、これらの糾弾はなかなかに分かりにくい。なにせ、責める相手は具体的な誰かではないのだ。それでも責めようとしたところで、やはり核心的な批判は難しい。相手に悪意があるのならば批判もやりやすいというものだが、この場合は単に、トラブルを防ぐための能力かやる気が、足りていなかった(ように見える)だけだからだ。

 

さて。しかしながらその手のもどかしさには、綺麗に解決してみせるすべが存在する。そう。悪意の誰かがいないのならば、作り出してしまえばいいのだ。

 

思うに陰謀論はこうして生まれる。どこかの誰かが誤ってバグを混入させた、というシナリオがはるかに現実的だとしても、どこかの誰かが意図的に経済流通を壊した、というほうが、物語としてはよくできている。そして、物語としての出来というのは、だれかを納得させるための非常に重要なファクターだ。「現実らしさ」と「物語性」。陰謀論者を自認しないひとにとってすらも(もっとも、陰謀論者は陰謀論者を自認しないのだが)、物語には現実に勝る説得力がある。このことはまあ、たとえば歴史もののドラマを見るときのみずからを顧みてもらえば、わかるはずだ。

 

さて。

 

冒頭の仮定に戻ろう。仮に明日地震が起きたり、銀行のシステムが止まったとして。わたしがたとえば、これはバイデンが起こした人工地震だとか、FSBサイバー攻撃だとか言い出したら、あなたはどう思うだろうか。そして日本の耐震工事や、システムのセキュリティ機構が働かなかったのは、それをあらかじめ無効化するウイルスか何かがばらまかれていたせいだ、と主張したら。

 

物語というものの説得力とは裏腹に、きっとあなたはわたしを、馬鹿だと思うはずだ。

 

これはどういう現象だろうか。わたしの話が荒唐無稽すぎる――というのはもちろんあるだろうが、おそらくそれだけではない。人工地震よりも耐震性の不足のほうがはるかに現実的だが、だからといって耐震性の不足には、すべての溜飲を下げさせるほどの説得力はない。

 

原因はおそらく、あなたの知識にある。すなわち、人工地震を起こす技術など存在しないという知識。あるいは、インターネットなどを通じてあなたが獲得した、人工地震というのが典型的な陰謀論であるという知識だ。